前半部分は鮑叔、後半は管仲を中心に描かれています。管仲の若き日は創作によるところが大きいようですが、実際にそうだったのではないかと思えてきます。家族の問題や失恋、出仕できる人がいないことなど不遇の時が流れます。その中で鮑叔だけが管仲を理解してます。そして天のみが管仲の才能を知っている・・・。
「管鮑の交わり」という故事成語で知られる管仲と鮑叔の話。管仲の宰相としての才よりも二人とそれを取り巻く人間模様がメインの作品だと思いました。
と、さも知ったように書きましたが、「管鮑の交わり」という言葉は聞いたことがある程度。また鮑叔の名前も過去出会った記憶がありません。平積みにされた本作品を手にとった理由は、高校時代に世界史用語集で管仲の名前を見たような気がして・・・、ただそれだけでした。
しかし、この作品を読むと後に諺になってしまう程の二人の関係をまざまざと見せつけられます。
初めて宮城谷昌光作品を読みましたが、また近々読みたいと思いました。
こういう作品を読むとどうしても感じざるを得ないのが、「人を見ている人」の存在ということでしょうか。
よく耳にする言葉に「ちゃんと見ている人はいる」というのがあります。私の中でほとんどNGワードの一つになっているこのフレーズですが、人を見ることが出来ない人ほど簡単に口にする言葉のようです。(もちろんちゃんと見ることが出来る人の一言には思わず唸ってしまいますが。)
「見ている人はいる」などと総論的に諭されようものなら、無意味な正論にその人との今までの関係性に吐き気すら覚えそうです。
『倉廩(そうりん)実(み)ちて則(すなわ)ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱(えいじょく)を知る』
弁えるのが難しく、そして美しくもない今、逆に弁えていきたいものです。
よく耳にする言葉に「ちゃんと見ている人はいる」というのがあります。私の中でほとんどNGワードの一つになっているこのフレーズですが、人を見ることが出来ない人ほど簡単に口にする言葉のようです。(もちろんちゃんと見ることが出来る人の一言には思わず唸ってしまいますが。)
「見ている人はいる」などと総論的に諭されようものなら、無意味な正論にその人との今までの関係性に吐き気すら覚えそうです。
『倉廩(そうりん)実(み)ちて則(すなわ)ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱(えいじょく)を知る』
弁えるのが難しく、そして美しくもない今、逆に弁えていきたいものです。
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